最大城郭は「江戸城」

(1)江戸城

 皇居を中心に、ほぼJR山手線と中央線の間にスッポリとはまった形の日本最大の城郭江戸城ですが、見所が満載です。今では、あちらこちらに江戸城が感じられる場所が点在しています。

まずは皇居ですが、お正月や特別な日の一般参賀日だけでなく、ほぼいつでも江戸城の中心地が参観できますし、事前に宮内庁HP「参観案内」からの 入城手続き(※)を済ませれば、だいぶ内部まで見学することができます。幕藩体制時からの建造物も多数残っていますし 、復元された建造物 もあります。

例)富士見櫓(関東大震災倒壊後復元)、富士見多門櫓、伏見櫓、三の丸巽櫓清水、門、平河門、桜田門、百人番所、大番所、同心番所など

 

・JR中央線沿いの外堀周辺、堀や内曲輪・外曲輪にあった見附門の櫓門の石垣、櫓跡の石垣、将軍や大名の上屋敷、中屋敷、下屋敷の門構えやその大名庭園、藩校建築物、歴代将軍の御廟など見ごたえたっぷりです。

 以下の写真をクリックすると、概略がわかります。

1)将軍の居城と幕府政治の中心地

  ①縄張りは、

大きく捉えると本城、西城、内曲輪、外曲輪の4つに別れます。

・本城は、本丸、二の丸、三の丸と通常のお城と大差ありません。

・西城は、西の丸山里、紅葉山の固まりがあります。

・内曲輪は、吹上、北の丸、西の丸下、大手前、大名小路と現在は皇居になっていたり、大企業のビル街になっていたりします。

・外曲輪は、内曲輪を取り巻く周辺部で外郭とも呼ばれています。北側から東側にかけては丁度JR中央線沿いになってます。見附と呼ばれる外堀の36ケ所の城門がありました。

②御殿は、

 本丸御殿、二の丸御殿、西の丸御殿の他に、品川の離れに浜御殿がありました。

 イ)本丸御殿は、表御殿、中奥、大奥に別れていました。江戸城の本丸御殿は、江戸時代の間に7回建て直しがありました。

     ・表御殿とは、将軍と大名が対面儀式をとる場所で、大広間、遠侍、表能舞台がありました。

 

・中奥とは、将軍が日常生活を行い政務を執る場所、幕府の役人が勤務する役所、賄をする台所で構成されて、白書院、黒書院、御座之間(将軍の居間で政務も執る)、御休息・御小座敷(将軍の寝室)、奥能舞台がありました。

 

・大奥とは、将軍の夫人が住む御殿、大奥に仕える年寄ほか御殿女中が住込む長屋(長局-ながつぼね)、台所と役所(広敷)で、御殿向(将軍夫人の居室)、長局向(女中の居室が並ぶ)、広敷向(大奥の諸役人が詰める所)、鈴廊下(大奥と中奥の間で、将軍が大奥へ御成りの際に使用)がありました。

 

 ロ)二の丸御殿

・将軍の別邸、世子の御殿になっていました。お茶や泉水を設けた寛いだ雰囲気がありました。 

       

   ハ)西の丸御殿

・隠居した前将軍や将軍の世子(世継ぎ)が居住しました。本丸御殿や二の丸御殿が消失した時に仮御殿として利用されました。幕末に江戸城に残っていた御殿は、西の丸御殿だけで、大政奉還後明治6年まで皇居として使用されました。

 

     ニ)紅葉山別殿

・特に家光時代から紅葉山にあった別殿で. そこには御台所用の御休息の間、御化粧の間、仏壇のある鋼津の間などがあり、式日用として将軍と会う御座の間や御小座敷などがありました。

 

・この別殿は、川越の喜多院が焼失した際に、家光の信頼の厚い天海僧正によって喜多院へ移築されました。家光の誕生の間や家光の乳母である春日局の間がそのまま移築されています。

     

 ↓本丸御殿跡        ↓本丸御殿跡       ↓本丸御殿跡内の松の廊下  ↓本丸御殿内氷室     ↓二の丸御殿石垣     ↓西の丸御殿跡             

 ↑紅葉山別殿移築先の喜多院(川越)                        ↑喜多院の家光の間    ↑喜多院の春日の局の間

③天守閣は、

慶長年間から元和年間、寛永年間の間に、それぞれ徳川家康、秀忠、家光の各将軍時に存在しており、各将軍時に建て直しが行われました。三代目の天守閣は、「明暦の大火」(1657年)の時に消失しまして、それ以降は再建されませんでした。本丸の北側端には、前述の焼失後天守閣再建の機運があり、前田家が修復担当した立派な切込み石垣の天守台が残っています。

 

イ)家康の慶長天守(1607年築)

 現在の天守台よりも南側の御殿跡に建てられ望楼型、各重ともに鉛瓦であったようです。

 

ロ)秀忠の元和天守(1623年築)

 現在の天守台の位置に層塔型で建てられました。

 

ハ)家光の寛永天守(1638年築)

 層塔型で黒塗りの銅板壁と銅板瓦葺に金の鯱鉾が付けられ、高さ44.8m、18間×16間という最大面積の天守りました。この姿は、「江戸図屏風」(国立歴史民族博物館所蔵)の中で描かれています。

 

※因みに、最大級の名古屋城天守閣と徳川大坂城天守閣は17間×15間、現存の姫路城で広さ13間×10間、高さ31.5mですのでいかに巨大だったか解ると思います。

※「間」とは長さの単位で約1.8m

※現在、NPO法人「江戸城天守を再建する会」による、寛永期天守閣を再建する機運があります。

  ④櫓は、

本城部分が最重要曲輪であったので多くの櫓や多門、長屋が配備されていました。西城部分と内曲輪は4棟、外曲輪には櫓は置かれなかったようです。

・櫓の総数は、約32棟前後あったようで、幕末まで存在した数は14棟です。幕末から明治初期に撮影された古写真には多くの櫓や門の姿が見られます。(別冊歴史読本「日本の城原風景を読む 城古写真カタログ」(新人物往来社))

 

イ)現存櫓3棟

 富士見櫓(天守閣喪失後の本丸の中心的櫓)、伏見櫓、三の丸巽櫓・・・・これらは関東大震災時破損後解体復元されました。

ロ)現存多門櫓

 数寄屋(富士見)多門、十四間多門(伏見櫓に繋がり二重橋側に見える)、十六間多門(伏見櫓の北側に繋がる)

   

  ⑤門は、

数えきれない程の数がありましたが、縄張り上や防衛の要として構えられた門の数は約57棟ありました。枡形に構えた門(一の門として櫓門、二の門として高麗門)は39棟あり、内桝型と外枡形の二種類ありました。  

※内枡形は、曲輪の虎口の内側に多門や壁で小さな方形空間を造り、前面に二の門である高麗門を築き後ろ側に櫓門を構える。  

 外枡形は、曲輪の小口の外側に地続きで方形空間を張り出し、最前に二の門である高麗門を後ろ側に櫓門を構える。

イ)現存門

 田安門、清水門、外桜田門

ロ)江戸36見附

 見附とは、城門に番所を設けて城内の出入りを監視したところからの呼び名です。外曲輪(外郭)に設けられた枡形門を見附としましたが、36見附の中には内曲輪に属していた門もありました。

     

江戸36見附

外郭に「の」の字の渦郭式約14㎞に櫓門と高麗門で構成された門構えが置かれました。内郭の門も含めて36ケ所の設置があったと言われています。下の写真は主に外郭に置かれた見附跡です。

⑥番所は、

現存番所として、百人番所、大番所、同心番所が残っています。三の丸にあり中の門前に横たわっている百人番所は、伊賀組・甲賀組・根来組・二十五騎組の4組交代で守っていました。

⑦城内庭園・吹上・紅葉山

二の丸御殿前には二の丸庭園がありました。紅葉山には、徳川家康の廟所(東照宮)や城内の文庫が紅葉山文庫に集められて管理されました。現在では、吹上とともに皇居の一部となっています。

⑧将軍家霊廟・東照宮

徳川将軍家の菩提寺は、寛永寺と増上寺で徳川家康と3代将軍家光、15代将軍慶喜を除いて、各将軍の廟所が置かれました。初代家康と3代家光は日光東照宮に、慶喜は谷中寛永寺に祀られています。寛永寺と増上寺には立派な廟所が残っていましたが、太平洋戦争で大半が焼失し、現在では廟門等の一部の遺構があるだけです。

 

寛永寺には、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定 の各将軍が眠っています。

 

増上寺には、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂 の各将軍が眠っています。

⑨浜御殿

6代将軍徳川家宣が将軍宿泊地として御殿を建設し、その後は別荘的な位置づけで、鷹狩りの休息場にもなっていました。

2)将軍を取り巻く親族、徳川家を支える諸一門 

 ここでは、将軍家の血筋を守るために設けられた親族、更には徳川家を支え盛り立てる為の徳川一門の扱いを受けた家について簡単に触れておきます。

 ①御三家

徳川幕府創設期には、将軍家を補佐する立場の家であり、重要な位置を占めていました。

家康の9男「義直」、10男「頼宣」、11男「頼房」が、各々尾張藩62万石で名古屋城を居城に、紀伊藩55万石で和歌山城を居城に、水戸藩35万石で水戸城を居城にして、特別な家格を与えて藩としました。

その際に、お守り役として、家康の腹心である家老がそれぞれに付けられ(※付家老)ました。付家老は、各藩の中では1万石以上の知行地とお城も与えられました。

 

御三家は、時代の流れの中で、徐々に幕府中核から遠ざけられていくようになりました。

特に、家康-秀忠-家光-家綱-綱吉-家宣-家継と直系の将軍家が、家継で嗣子後継者がいなくなり、紀州家から吉宗8代将軍になった後は、後述する御三卿にとって替わられ、尾張家と水戸家は幕末まで力を持たなくなりました。

 

※付家老

家康が三家独立に際して、「義直」「頼宣」「頼房」に付けた家康の有力直参家老

 「義直」-成瀬家(犬山城)、竹越家(今尾城)

 「頼宣」-水野家(新宮城)、安藤家(田辺城)

 「頼房」-中山家(松岡城)

 

家康没後になり各家も2代目以降となると、直参ではなく陪臣(将軍の直参である大名の部下の扱い)となり将軍に目見えできなくなりました。

 

・各家ともに、将軍の直参である大名に戻すように運動が行われましたが、結局幕府崩壊後の1868年に藩として認められました。しかし、1872年には廃藩置県となってしましました。

   

②御三卿  

御三とは、8代将軍吉宗の後継である9代将軍家重の弟宗武、宗尹にそれぞれ「田安家」「一橋家」を創設しました。また、家重の次男の重好に「清水家」を創設させました。

 

この三家は、将軍の後継がいなくなった時のもしもに備えた家として創設されただけで、知行地はなく江戸城内の北の丸内に御殿が設けられました。

 

この創設の時点で、御三卿から代々将軍家を出すことを宣言したもので、既に創設されていた御三家(尾張藩、紀州藩、水戸藩)は将軍系譜からは蚊帳の外に置かれました。

 

10代将軍家治(いえはる)の後継であった家基(いえもと)死去後は、「一橋家」の家斉(いえなり)が11代将軍を継ぎ、13代将軍まではその嗣子が後継となりました。しかし13代家定に子供がいなかったので、14代家茂(いえもち)は紀州家から、15代慶喜は水戸家から一橋家に養子となった上で将軍職につきました。

 

・前述しましたが、御三卿の居住地は江戸城北の丸内にあり、現在では、その居住地であった入口に田安門、清水門が現存しています。

 

・知行地(領地)は持たなかったですが、手当てとして賄料が1家当り10万石が支給され、家臣は主に旗本直参が世話をして、取立て家臣は極わずかであったようです。幕府の財政危機に面した1780年頃には、財政再建の為に、後継ぎがいなくなったこの機に田安家をなくそうとした経もあります。

 

③御家門

特に徳川将軍家の一族及び徳川家康の兄弟の家系の大名家、旗本家を指していいます。家康の元の姓である松平姓を名乗ることを許されました。御三家から出た家系、御三家以外の家康の養子に出た子(結城秀康)の家系、家康の異父兄弟(久松家)の家系、家光の異母兄弟で養子(保科正之)に出た家系、将軍家庶流・姻族の家系があります。特に、御三家からさらに分家して立藩した親藩大名家を特に「御連枝(ごれんじ)」と呼ばれていました。

 

・御三家尾張系-高須松平家(高須陣屋)

 

・御三家紀州系-西条松平家(西条陣屋)

 

・御三家水戸系-守山松平家(守山陣屋)、府中松平家(石岡陣屋)、宍戸松平家(宍戸陣屋)、高松松平家(高松城)

 

・結城秀康系    -福井松平家(福井城)、前橋松平家(前橋城)、糸魚川松平家(糸魚川陣屋)、明石松平家(明石城)、広瀬松平家(広瀬陣屋)、母里松平家(母里陣屋)、津山松平家(津山城)

 

・久松系   -多古松平家(多古陣屋)、小諸松平家(小諸城)、刈谷松平家(刈谷城)、桑名松平家(桑名城)、松山松平家(松山城)、今治松平家(今治城)

 

・将軍家庶流・姻族系-会津松平家(会津若松城)、吉井松平家(吉井陣屋)、宮津松平家(宮津城)、浜田松平家(浜田城)

 

④松平18家

 家康以前から遡り三河松平氏八代の間に分出した松平庶家の総称です。大名や旗本に登用されています。

岩津、大給(おぎゅう)、安城、長沢、岡崎、五井、深溝(ふこうず)、竹谷、形原、能見、桜井、東条、福釜、藤井

        

(2)大名屋敷(藩邸)と大名庭園

江戸城周辺に、幕府が土地を大名に与えて屋敷を構えさせました。江戸の大名屋敷は江戸屋敷と呼ばれ、大名の幕府への政治的、経済的な窓口や現在の諸外国の大使館のような役割も持っていました。

1)上屋敷は、

 参勤交代などで、江戸在住時の大名が居住する屋敷です。

  

2)下屋敷は、

 郊外に別邸として設置され、大規模な大名庭園や多くの蔵が建てられることが多く、蔵屋敷とも呼ばれる場合がありました。

 

3)中屋敷は、

 上屋敷と下屋敷の中間に設けられた屋敷で、上屋敷が火災などで使用できなくなった時の代替地として準備されていました。内には、現存している上・中・下屋敷の門構えや移築されたりしていますし、大名庭園も各所に残っています。また各大名の事情により、大坂や京都にも屋敷を構えていました。  

 

元々の成り立ちは、伏見時代(信長時代)の小牧山城、その後の安土城の周辺に信長家臣団が集められて住居を構築したことに始まります。その後、桃山時代(秀吉時代)の伏見城の周辺には、秀吉家臣団が集められました。現在でも、その名残として、伏見周辺には当時居住した家臣の名前が付いた町名が各所に残っています。

・桃山羽柴長吉東町、桃山毛利長門東町、桃山福島太夫南町、桃山井伊掃部東町、桃山町治部少丸、桃山町島津、桃山町長岡越中北町

 

  大名屋敷(藩邸)

1段目↓彦根藩                      ↓一ノ関藩                      ↓鳥取藩

2段目↓津藩                       ↓熊本藩         ↓佐倉藩                       ↓砂土原藩

三段目↑小浜藩        ↑赤穂藩         ↑長府藩                        ↑弘前藩          ↑加賀藩

四段目↑加賀藩        ↑徳島藩                                     ↑姫路藩          ↑紀州藩

  大名庭園

(3)旗本屋敷

屋敷は、幕府から提供されたもので、主に江戸城の西側に集中して置かれました。

 

(4)幕府組織運営の為の諸施設

1)江戸町奉行所(北町奉行所、南町奉行所)

江戸には2ケ所に置かれ、市民の行政と司法を担いました。

※大坂、京都、駿府の他に日光や奈良等にも奉行所が置かれました。 

 

←南町奉行所跡(現 マリオン敷地)

  

 日光奉行所、奈良奉行所(現 奈良女子大学敷地)の各写真

2)昌平坂学問所(湯島聖堂含む)

1970年に神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設です。 

 

←湯島聖堂入徳門

 

・湯島聖堂の各写真(写真からリンク)

  杏壇門と大成殿、仰高門 、水屋(重文) 、西廡(西廻廊、重文)、大成殿(孔子廟) 、大成殿(孔子廟)、入徳門

3)小石川養成所

幕府が江戸に設置した無料医療施設で、将軍徳川吉宗と江戸町奉行の大岡忠相が「享保の改革」における下層民対策のひとつです。

    

4)蔵屋敷

米蔵が並んでいて地名で「蔵前」が残っています。

※各藩も大坂堂島にも置いて、各地からの米が集まり米相場が成立していました。

 ↓中津藩大阪蔵屋敷跡

←中津藩大坂蔵屋敷跡

 

・大坂蔵屋敷跡の各写真(写真からリンク)

  高松藩蔵屋敷跡碑(現リーガロイヤルホテル、中之島筋沿い)、佐賀藩蔵屋敷跡碑(現大坂高等裁判所西南端) 、

  薩摩藩蔵屋敷跡(現三井倉庫前) 、小城藩蔵屋敷跡碑(現堂島関電ビル敷地、西天満2)、

  長州藩蔵屋敷跡(土佐堀1丁目4、なにわ筋)、 中津藩蔵屋敷跡碑(現朝日放送ABCホール南、玉江橋北詰)

               福沢諭吉誕生地碑

(5)江戸以外の幕府運営の諸施設

1)京都所司代

京都の護衛、朝廷公家の監察、西国諸大名の監察を担いました。

 

2)京都守護職

幕末に、京都の治安維持の為に設置されました。

 

←京都守護職屋敷門(写真からリンク)

  (現 京都市武道センター<旧武徳殿>の敷地南側)

3)大坂城代

大坂城の守衛、西国諸大名の監察の為に設置されました。

 

4)城代

大坂城、二条城、駿府城、伏見城(家光の代でなくなる)の各城に置かれて、城主留守中の管理を行ないました。

 

5)町奉行所

大坂、京都、駿府の行政と司法を担いました。

 

  6)遠国奉行

伏見、長崎などの幕府直轄地の行政と司法を担いました。

 

  7)甲府勤番支配

甲府城の守衛を担いました。

 

8)関所  

 

碓井関所東門(写真からリンク)

 ・東門 1616幕府により設置、明治2年まで。ケヤキ材で復元。

 ・碓井関所本陣 上段の間(8畳)と控の間(3畳)

  9)代官所